人生の労働

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はじめに

秋風に寄せて家持は歌った。うつせみの世は常なしと知るもの秋風寒く偲ひつるかも。2019年の秋口、私は学振を中途辞退し、民間企業に就職することにした。そして、2020年3月に就職が決まり、現在勤務している。

とはいえ、私はフランス文学研究をしている。しかし、困ったことに、すくなくとも文学研究者としての私の生活に未来はなかった。文学研究者、いや、広く人文科学の研究者には大学での仕事が少ない。例えば、私の友人で、言語学の分野で研究し、私よりも遥かに優れた経歴と業績のある院生でさえ、東は福島県、西は静岡県までみても、通える高等教育機関でのフランス語や言語学で非常勤職の公募がないと愚痴をこぼしている。語学講師は文学研究者では一般的な仕事だ。しかし、いまや、首都圏にさえ仕事がない。つまり、研究者としてのキャリアを築くのが難しい。

私はそうした背景から民間企業に就職した。文学や語学に携わりながら大学機関で勤務することが難しい現在、私のような経験が今後の文学研究者志望の人に役立てば幸いだ。なお、このエッセイは文学研究を志望している人以外に向けて書いていない。本文中で何度も書くことになるが、これは広くアカデミズムの状況について書いたものでは一切ない。実際、人文科学のアカデミシャンでも、ここに書かれていることに膝を打つことはまれだと思う。その点についてはご注意いただきたい。

未来危うしと判断すべき基準

学振に選ばれるまでに至りながら研究職を断念するのはその心根を量れば容易ではない。しかし、昨今の状況を鑑みて、潔く研究職を断念すべき状況があり、それについて箇条書きで示す。

  1. 博士1年目に査読付き論文がない。
  2. コミュティに入って積極的な交流がない。
  3. 2年目までに海外での発表がないし、外国の文化圏を扱っているが留学経験はない。
  4. 3年目で博論の大枠ができていない。

反論のある人もいるだろうが、それについて私は気にかけようとも思わない。むしろ、これは文学研究以外の標準的な条件を整理したに過ぎず、もはや文学研究でさえそうなっているということだ。今から文学研究者を目指すなら、今よりもずっと困難な時世になっているのは火を見るより明らかであり、そういうわけで、まず事項1は肝に銘じたほうが良い。1年目に査読のない人は将来的に厳しい。もちろん、査読に通るのが1年目で、発行は2年目で構わない。

次に、事項2。これも大事で、つまり、翻訳、シンポジウム発表などの仕事が回ってくる循環の中にいるかどうかだ。仕事を回してもらえる中にいると、口聞きで非常勤講師職の斡旋もしてくれる。人々は驚くかもしれないが、語学教師職は公募とは関係なく知り合いつながりで仕事を回していくのは稀なことではなく(もちろん形式的に応募書類を出すことになるが)、この循環の輪に入れているかどうかがその後の仕事の方向性を決める。語学系非常勤講師の公募には、たったあれだけの給与と待遇のために教歴が求められるので、輪に入れなければまず応募すらできない。

事項3は事項2と大きく関わる。文学研究の場合、シンポジウム公募は多くなっているとはいえ、まだまだ知り合いからの依頼で発表する例が多い。なので、海外コミュニティや、国際学会を日本で開く場合に呼ばれるような経験がない人は将来的に厳しい。仕事の輪があまりにも狭いからだ。これは、留学しているかしていないかでいえばなぜしているかのほうが重要かを説明している。また、留学にかかわらずアジア圏で公募のある自分の研究分野と少しでも関係していそうな学会を調べ、公募しているなら積極的に発表していくべきだ。ただし、1もそうだが、最近は人文系研究の海外発表の助成や留学のための助成金の枠が大変少なくなり、ラボ・ゼミの運営費によってゼミ生にどんどん海外に行かせて訓練させるといった習慣や制度のない人文系研究者コミュニティも多く、そもそもこれらを実現させる可能性は低いだろう。

最後の事項4はこれらとは少し内実が異なるものの、将来設計においては重要だ。3年目に博士論文の大枠が決まっていない場合、ただでさえ就職事情が厳しい中で不利になる。なぜなら、博士号をもっているかもっていないかであれば、博士号をもっている人を採用するに決まっているからだ。取得見込みは応募できる職の枠が大きくなる以上(PDを含め)、博士論文はとにかく早いほうがいい。そうでなければ、職歴を作れない。

以上が断念すべき条件であり、まさに私はすべてを満たしていた。それぞれなぜそれができなかったのかについては明確に説明できる。そして、その程度には冷静だったために就職できたと言える。ただ、断念の理由については本文の問題ではないので詳らかにしない。

就職にあたって

修士の頃

私の最大の過ちは教歴についてあまりにも楽観的だったことだ。学部自体に教免などをとっていれば、多少はアカデミズムに近いところで仕事をし続けることができたろうが、それはいまとなっては叶わない。しかし、文学研究者を志望する隘路を歩むのであれば、細心の将来設計が求められる。今後の志望者にとって理想的なのは、修士2年生で、就職活動、学振の申請、および留学準備はすべて行うほうが良い。もちろん、先人や教員からはこうした指摘は厳しすぎる、現実的でない、将来の芽を摘む、そもそも教員のキャリアについたことがない人間が言えることはたかがしれているなどいろいろあるだろうが、反論の数に比べて人生は短い。そうした意見に今は応じず、先を急ぐ。

修士2年生は修論を書く必要があり、とにかく忙しい。死ぬほど忙しい。私にもよくわかる。いろいろあって、実際4ヶ月しか執筆時間がなかった私は末期に不眠不休で、修論を仕上げた暁には倒れていた。そのなかで果たして就活、留学準備ができるのだろうか。生活費を稼ぐ必要さえある。しかし、私からすれば、もしもできないなら、専業の文学研究者になるのには相当の覚悟か、幸運(お金を気にする必要がなくなる何か)が必要となる。なぜなから、実際、向こう10年程度は専業でそこそこ暮らしていけるようにはなれそうにもないからだ。その分析をここで書く必要はないし、先輩に聞けばわかると思うのでインタビューして欲しい。なお、やはりこうした状況は文学研究以外にはそこまで当てはまるとは思っていはない。

さて、私の場合、修士2年生の時、かなり将来の見通しが甘かった。学振の結果が判明してから就職すればいいやと安易に考え、就職活動がだめなら3年目の修士でいいやと思っていた。しかし、もしもだめだった場合、あまりいいことにはならなかったはずだ。なぜかというと、大抵の人文系大学院生は民間企業で就職活動する人たちのグループに入っていない。そのため、世の中にどんな会社がありどんな風に活動を進めていくか手探りになってしまうからだ。また、都内や政令指定都市の一部の比較的大きな経済圏の中ならこうしたことは比較的楽になるが、そうでない場所にいる場合、そもそも職の幅を広げるために遠方に出かける必要が生じ、資金と時間に大きな制約が加わってしまう。その点からいっても、早めの備えが求められるというわけだ。こうしたことから、修士1年目では卒業要件の単位のすべてを取りきるようにして、春休みで修論の構想を練りつつ業界研究本などぱらぱらめくる必要がある。自分の周りに民間企業勤めの人間が多くない場合、そもそもこの世界にどのような業種が存在し、業種に応じてどんな会社があり、どのような雇用形態があるのか直観的に把握することはできないし、ネットサーフィンから得られる情報の質は限りなく低くく、分厚い書籍にまとまったものにあたるのが一番近道となる。ところが、私は学振に受かったこともあり、そうしたことを考えなかった。ただ、先ほどの断念すべき理由を満たしていたのに気付き、転職ということで就職活動をした。

博士課程での単位

なお、博士をしながら働きつつ単位をとるのは難しい。同ゼミの人にそういう方がいらっしゃるが、その方は平日が休日になっているからできることであり、そういう働き方は必ずしも一般的ではない。なので、フレックス制がまともに機能している会社を選ぶのが良い。大きな企業でも、フレックス制を取り入れている企業はあるので、選択肢に入れておくと良い。

もちろん、たまった仕事を片付けるために休日に出勤したり家に仕事を持ち帰ったりする必要があるかもしれないが、時間を自由に使えるということ以上に価値のあることはない。

特別研究員からの転職

「学振に受かる」と通俗的に言われているのは、行政的な言い回しをすると「独立行政法人日本学術振興会(いわゆる学振)の特別研究員に採用される」となる。しかし、学振と特別研究員に雇用条件はない。この点については、いくらでも解説しているブログがあるので詳しくは書かない。結論だけ言えば、特別研究員に支払われる奨励金は、ある国税庁の答申に依拠し、雇用条件がないのに給与として支払われるため、源泉徴収票が配布される。つまり、特別研究員に採用された場合、雇用者がいないのに給与をもらっているという奇妙な状態になる。しかし、バックグラウンド調査などされても、とくに問題がない。なぜなら、普通はそんなことがありえず企業側も厳密な応対などできないので、源泉徴収票と特別研究員として採用されていた事実に整合性がとれさえすればいいからだ。加えて、給与所得なのは事実なので給与額面要求で交渉の余地さえ生じる。ただし、特別研究員になる人は民間企業経験のない人がほとんどなので、扱いはほとんど新卒と同じで、大きな企業に入った場合、習慣になじむためのオリエンテーションに参加することになるだろう。

以上を前提に、私の就職活動スケジュールを簡潔に記す。

転職はまず転職エージェントに連絡するところから始まる。リクナビ・マイナビでもいいし、なんでも良い、そうした転職斡旋サービスに登録してエージェントからのスカウトメール(聞こえはいいがつまりダイレクトメール)を待つ。とにかくエージェントに何人か会うか電話するかで感触をみて、人柄が合う合わないを確かめつつエージェントを2-3人に絞る。

ところで、そもそもエージェントを選ぶべき理由は、

  1. 履歴書と職務経歴書の雛形を用意してくれるし、添削もしてくれて、面接の対策もしてくれる。無料で。
  2. 大きくないけどいい会社を紹介してくれる。

という2つの利点にある。1には特に説明を加えない。2は意外と重要だ。まず、中規模からこれから大規模になる会社の名前はサービスそのものに関心がなかったり、BtoBだったりすると、私たちがその名を知ることさえほとんどない。それに対して、エージェントはそうした会社の情報を持っており、紹介してくれる時がある。また、スカウトメールは時々、ベンチャーの人事部の人から直に連絡があるが、こうしたアプローチのベンチャーとうまく雰囲気が合うことはまずないので、エージェントを通した会社に応募することで、意味のない面接の無駄を省けるという効果もある。

私の場合、2019年12月の半ばに複数の転職エージェントに連絡を取った。1月に書類応募し、書類選考が通った会社はオンラインテストを受けた。2月から5社で面接が始まり、3月に3社から内定をもらった。1社は外資コンサルでそちら向きの能力がないのと、面接官との雰囲気が絶望的に合わず選考途中で落ちた。もう1社は医療ITメガベンチャーでCOVID-19の感染拡大のためか、選考途中からスケジュール間隔があまりにも開き過ぎてしまい、こちらから辞退した。内定が出揃った時点で結局友人の紹介で面接した外資系医療機器関係の会社に就職が決まった。

文学研究者向けの一般企業向け就職アドバイス

本来、文学研究者を志す人のうち、何人もの人が教員免許を取得しているので、そもそも教員という道があるが、ここでは教免取得者に関わるような話はしない。民間企業就職しながら文学研究を続けようとする人は少ないので、そうした事例として読んでいだければ幸いだ。

一般的に、文学研究者は書類の申請に書き慣れている。さらに、人と話すのは好きではないが研究の話ならできるという人もいる。あるいは、何もせずごろごろするかわりに本を読んでいる人。ここで大事なのは、どちらにせよ大きな会社に行くほうが良いということだ。意地悪に言えばスポーツナショナリズム的な集団行事が好きな人とは文学研究者は相容れないように思うが、それでもある条件さえ満たしていればやはり大きな会社に行くべきだ。条件は以下の通り。

  1. その会社で自社製品や商品を扱っている。ただし、ゲームは商品から除く。
  2. 事業規模が大きいこと。できればグループ会社。
  3. 行政法人がいいかは人による。

1は職種についての指針で重要になる。基本的に、有形の商品を扱っていない会社、つまり、コンサル、商社は文学研究をする人には向いていない。なぜなら、コンサルは善きソフィスト、商社は実存に疑問の余地がない人にしか向いていないからだ。コンサルは、論理的推論を自動化する技術を基調とする。文学研究者にはおよそ向いていない職業だ。次に、商社は、文学という人の悩みについて書いてある物語を読み、なんらかの形で自分の人生にも若い頃から悩んでいる人には向いていない。私の偏見では、商社向きの人はそもそも文学を読まない。それぞれにはそれぞれの生き方がある。

なお、ゲームと入れておいたのは、ベンチャーについて注釈しておきたいからだ。人と人を繋ぐサービスとやらを展開しているベンチャーとゲーム(とくにソシャゲ)を作っているベンチャーは文学研究者には向かない。ただし、製品を自社で構えていたり、大手企業の技術者が独立した会社のうち、すでに数年間会社が続いており、工場なども間借りの形とはいえ複数持っていて、倉庫と在庫管理を社内でやっているようなベンチャーもあり、そうした会社であれば面接をお勧めする。これらは私が自分で面接をして確かめてきたことだ。もしもゲームや先に述べた類のサービスに関心があって面接に行き、向いているなと思ったらあなたが文学研究者の中の例外か、そもそも文学研究者には向いていなかったかのどちらかだろう。人生がそれで開けるかもしれない。

2は、福利厚生面で大きな会社が圧倒的に良く、そのグループ会社も同等の条件での雇用が普通だからだ。なお、同グループ会社でも子会社ごとに雰囲気が違うのは普通なので、ひとしなみに同じようなものだと扱うべきでなく、実地で確認すべきだろう。

3に挙げた法人に私はまったく応募しなかったが、知り合いに行政法人に勤めながら博士号をやっている人がいたので加えておいた。なお、その人は現在は民間企業に転職した。働き方に柔軟性がない代わりに休みをとりやすく、繁忙期が限定的なので定時に帰れる期間が一年を通じて長いのが特徴だ。なお、少し組織の性質は異なるが、県庁などについては、一般的に忙しいので博士との両立には苦労すると考えられる。ただし、官庁勤めで博論を書いている人も知っているので、自分の状況などをみて考えるのが良いだろう。

最後に付け加えておくと、新卒の場合、いずれにせよ部署配属は選べず、まったくのギャンブルなので部署ごとについての悩みは、社内異動願を早めに出す、なんにせよだめそうなら3年目で転職活動、4年目は別会社へ軟着陸を目指すというのが良いだろう。

資格の必要性

資格はなくてよいが、あって便利なものである。資格は知らない領域のものを体系的に習得するいい機会だ。私の場合は、基本情報処理士の資格を取得した。そのおかげで、大きな仕事が回ってくるのがはやそうだ。関心がもてるものであれば資格取得をお勧めする。

時に人脈

先ほどからいろいろ言っているものの、そろそろ読者が抱いているはずの疑問に答える必要があるだろう。つまり、「でもあなたは結局、友達の紹介した会社に行ったんでしょ」ということだ。その通り。そして、それもまた転職活動の真実だ。

エージェントとのやりとりは、どれほど親身に思えても、金のつながりであり、血肉の関係ではない。簡単に言うと、自分に対する理解の解像度が低い。先にエージェントは大事だという話をしたものの、エージェントは、結局他人だ。

こんなことがあった。私は面接した会社からのフィードバックを参照に、エージェントから「お前は研究者なんだから自説にこだわるし、交渉に感情的になるし、そのままでは物を売れる人間になれない」みたいなことを言われた。そう言われるのは別に気にならなかったが、ご本人は一度でも製品・サービス販売をしたことがないのを最初に自己紹介していたので笑いそうになった。教訓。エージェントは私に優れた案件を与えてくれても、優れた知見を与えてはくれなかったのだ。自分はこんな人間だったのだ、と気づかせてくれるのは、結局友人や恋人である。友人や恋人を大事にした方がいい。

事実、そもそも転職についての相談は、大学時代に民間企業に就職した先輩たちによるアドバイスの方が参考になった。エージェントは優れた会社を紹介してくれたのには違いないが、そのさまざまな意見は残念ながらあてにならなかった。

まとめると、良い仕事は良い人間関係からやってくることもある。もちろん、そうでない転職も知り合いにはたくさんいるので、私はあくまでも一例にすぎない。ただし、エージェントを信じすぎてはいけないのは普遍的な真実だろう。

人生の労働

Social Distancingの英語の妙は、socialが日本語としては社交に限りなく近く、まさしく英語的には社交的親しみを取り去ることであり、すべてがオンラインコミュニケーションになることで、ハイデガーのEntfernungがサバイブするために有効であるという近代主義の徹底(いまや、distancingそのものが同じ意味で術語化してもおかしくないが)、さらにはカイラル・ネットワークのゼロ時間通信が此岸と彼岸を回転させる『デス・ストランディング』すら連想させる。私はこうした世情で、民間企業勤めをしている。労働の本質について深く考えさせられる日々だ。

そんな中、ハンナ・アーレントの議論を思う。人生そのものになってしまうような純粋な労働など、自明に定義できないし、ひょっとすると存在しないかもしれない。人は、生活を営む過程で、何かの知見を深め、利益を生み、あるいは損失の憂き目に合う。そうしたなかで、自身の経験に価値を確信し、技量に手応えを覚え、それを磨くことを人生そのものに感じる。そう、労働による承認と自己実現だ。人はあらゆるところで、そんなふうに実存する。それこそ労働の人生だ。

ただし、私は、結局、文学研究者だ。G・サンドが引用していたホルバインの版画に書いてあったあの詩を少し変えて言えば、A sueur de ton visage, tu gaigneras ta vie médiative. Après long travail et usaige, voicy la mort qui ta convie.ノルマや多少のパフォーマンスを見せる以上のことを労働に割こうと思わないし、そう働いて死んでいくと思う。招いた死がドアを叩くまで、人が余暇と呼ぶ時間に詩や散文に耽り、哲学と思想に感心し、その解釈のために論文や散文を書こうとし続ける。私のわずかな幸運は、そんな人生の労働に随分前から就いていたことなのだろう。

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