2010年、『現代思想』

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雑誌『現代思想』はある時から2000年代から10年代初めに欧米で大きな勢力をもった新しい人文思想(Humanities)のムーブメントを総括するような記事をここ数年の新年号で掲載してきた。数年間繰り返されたテーマも新機軸がなく、2019年半ばから人文書の雰囲気が様々な形で示していた「ケア」もあまり明確には取り上げられず —— 10年前からの草の根活動の次世代にあたる人々の本がいまになって注目されるあたりにメンタルヘルスと介護がいよいよ日本の思想的課題だと感じるが —— 、いよいよあまり統一感のなくなった誌面を漫然と眺めていたら、ふとそれが2020年の1月号である、その事実に慄然とした。私が『現代思想』を読むようになってからちょうど10年が経っていたからだ。

初めて買ったCDを覚えているように —— 私はRodorigo y Gabriela, Rodorigo y Gabriela だった —— 、初めて買った『現代思想』を私はよく覚えていて、それはレヴィ・ストロース特集だった。2010年1月号。高校生1年生の終わりに、近所の大きな本屋で買ったような気がする。

そのラインナップを見て、驚いてしまった。連載は、檜垣立哉の『ヴィータ・テクニカ』、子安宣邦が和辻論、そして永遠連載の立岩真也。生物学が政治でどのように利用されるかを考えるきっかけだった『ヴィータ・テクニカ』、和辻が岩波文庫以上の存在なのかと思い知り、ベーシックインカムの語を知ったのはそもそも立岩のこの文章でだった。このうち、立岩のは何度も読み直した気がする。興味深く思ったのを今でも覚えている。たぶん、あの頃、まだ自分は筆で身を立てることを可能性の中の1つとして本気で考えていた一方で(商業誌の評論賞に応募などしていた)、戦後まもない作家のエッセイなどたくさん読んでいたので、それがいかに不安定な生活になってしまうかも漠然と意識していたため、ベーシックインカムを素朴に支援していたのだろう。なお、10年という時は、何かを素朴に肯定することを本当に難しくしてしまった。いま、ベーシックインカムについて語ることは本当に難しい。日本化されたMMTなど傍目に、ときにBIはいまだ無視できない存在を発揮している。毎年学ぶことが増えるばかりだ。

特集に寄稿している記事は内容はうっすら覚えているが、誰が寄稿しているかを改めて見て驚いてしまった。16歳で今福龍太、松本潤一郎、渡辺公三、小泉義之、出口顯、長原豊など界隈の名前をすでに目にしていたかと思うと、あの頃は人名で記事の内容を想像などしていなかったのだな、と賢しさに伴う愚かしさに嘆息してしまう。

こんな人間は、そのままいけば、大学入学そうそうにフランス留学をして、日本の大学を退学、そのままフランスで博士号までを取得し、日本には就職するまで帰ってこなかっただろう。ところが、今から思えば奇妙に知的な高校教師たちの影響でそうはならなかった。高1の国語の授業では柄谷行人の『近代日本文学の起源』の読解を、背景をきちんと説明しつつ受験国語を解くようにしてやっていたし、中学3年生の頃の国語の授業ではハイデガーとデリダ(の『境域』)で志賀直哉の「城の崎にて」を読解していた。というわけで、こてこての日本の知識人の息吹を受けていた。そんな雰囲気の中で、避けられず出会ったのが東浩紀だ。ただ、これをかつての恩師らが読んでいるとして念のため言っておきたいが、その中で東浩紀を肯定的に評価している人はいなかった。

そんなふうに、東浩紀には毀誉褒貶ある。そして、私も真面目に勉強してきたし、この歳になるとその読解を疑問に思うことのほうが多くなった。とりわけ、『アナ雪』(トナカイと友人でトロールに育てられた人間嫌いが人間(異性)と交流できただけそもそもマシだし、それがディズニー男性表象でどのような⋯⋯、やめておこう)や『キャプテン・マーヴェル』(こちらは表に出ていない気がする)の評を聞くたびに、ふだんの切れ味すらないと思ってしまう。なお、近年の東浩紀のコンテンツ批評 —— これも、おそらくもう過去の言葉になっている —— で傑出していたのは、『湾岸ミッドナイト』が首都高の円環と刹那的投機主義(ワンチャン主義)の表象なので、高級車が粉砕されるという指摘と、SW EP8のルークとレンの戦いについて、ルーク=仮想通貨でレンが何かよくわからないがやばい気がするので資産=弾丸をすべて費やすがすべては幻影だった(日本ではコインチェック事件に代表されるような現実的なリスク)という読み替えと思っているので、私のほうに何か問題がある可能性もある。とはいえ、こうしたなんともないシーンに、正しいとか間違っているとかは度外視して、圧倒的な社会的文脈を放り投げていくスタイルを、私は東浩紀によって初めて知った。フランス文学研究にいると、東浩紀の上の世代の批評家はそういうことをし続けていたわけだし、英語でものを読むようになりフランス語が読めるようになるとこうしたものを単に反映論的なんちゃらといってしまうに止まらない世界があるのは十分にわかっている。まともな知的ルートを歩んだ人たちには、東浩紀的なスタイルが2010年の自分にとってどれほど衝撃だったかはきっと理解してもらえないだろう。しかし、私にとって真に衝撃的だったのが、東浩紀だったのだ。

多くの東浩紀読者ならわかっているだろうが、『現代思想』と東浩紀の話をするということの意味は、その二つが綺麗に別の世界として成立しているように見えていたということだ。『批評空間』に博論を連載し、『存在論的、郵便的』を刊行した東浩紀は、エッセイ「人文学と反復不可能性」まで一度も『現代思想』に文章を寄せたことがなかった。法月綸太郎ですら載っているのだから、なぜそうなっていたのかまったくよくわからないが、いまとなってはそのでもいいことだ。ただ、とにかくそれらはソリッドに分かれていた。片方にハードな議論としての『現代思想』、片方に日常的な文脈と作品を行き来しながら思想的解釈を挟み込む東浩紀。前者では分析哲学から社会思想まで幅広く知ったし、後者からは低俗エンターテイメントとみなされる作品を取り上げる意味やそれがもたらす効果を教わった。また、それらは時に混ざり合った。多くの人が忘れているが、2010年には『ised』が公刊され、それに合わせて開かれた早稲田大学のシンポジウムに私は高校生の時に行って、会場入りする東浩紀をたまたま目撃した。笑える話だが、私はそういうシンポジウムはちゃんと控室があってそこで登壇者が顔合わせしてから入場するものだと思っていた。東浩紀が案内の人に「あ、こっちですよ」と指示されているのを見ていた高校生だった自分は、なんてフットワークの軽い人なんだろうと感心した。そんなわけで、『ised』はとにかく16歳の自分には衝撃だらけだった。自分が生まれたアメリカについて親が見ているCNNやカントリーミュージック、オルタナ(EMO!)を通して漠然としかイメージしていなかったものが、カルフォルニア・イデオロギーから続くテクノロジーと社会設計の議論によって急激に解像度が上がった。なお、思い出して欲しいがiphoneが発売した2007年から3年しか経っていなかったので、スマホ自体がまったく一般的ではなかったからそれが可能性として語られていたし、YouTubeはまだGoogleの傘下ではなく、現在のような教育的な利用法はあまり一般的ではなかった。検索する言葉すら直感的に選べなかったのだ。

そんな中、同じ年に矢継ぎ早にコンテクチュアズが発足する。著作活動に続いて会社を設立した東浩紀を16歳の自分がどう思っていたのかはここまでくれば容易に想像できるだろう。つまり、『現代思想』的なものはもはやクールと思っていなかった。フランスに留学するという考えも一切なかった。受験競争においては落ちこぼれだったので、母国アメリカに留学するというのもやめた。いまでもそうだが、私は数学の試験が本当に苦手で、短時間で的確に最適な解答をするのができない。その頃は、数学の不出来のために受験勉強全体に自信を喪失しつつあり、周りはとにかく頭がよかったので相談もできず、結果的に親に対して「アメリカ行きたいから対策用の勉強をさせろ、金をよこせ」と強く言えなかった、 —— その後?反動でバンドをやっていた。それが16歳だ。17歳ではないけれど、「真面目なんかではいられない」。

そういうわけで、東浩紀をクールだと捉え、『現代思想』は本屋で立ち読みするようなものになっていた。なので、高校生の間で買った『現代思想』は後にも先にもあの1冊だった。ただし、すべてが決定的に変わってしまう出来事が2011年3月にあった。期末試験で数学に追試を課された自分は留年だけはしたくなかったので、3月11日に鬱々と数学をやっていた。昼過ぎ、コーヒーを飲みながら微積か何かを解いていた。最初はほんの小さな揺れだった。大したことはない、いつもの揺れだと思った。ところが、その後奇妙に長い横揺れが始まった。地学の教科書に書いてあった、大きな地震の特徴そのままであると判断した自分の体は、すぐにギターを掴んで背の低い本棚を支えていた。コーヒーは波打ち、こぼれ出した。生まれて初めて自然に揺れたコーヒーがこぼれる姿だった。それが終わったあと、初めて「城の崎にて」の意味がわかった気がした。つまり、生き残ること。それはSurvivreであり、デリダだ。東浩紀がそこに結びついた時、『存在論的、郵便的』を読んだ。それは、2011年4月のことだった。

『現代思想』、そこにいない東浩紀、震災。それらがこの10年の自分を規定していたと思う。2020年の『現代思想』を読んで、ふとそんなことに思いを馳せた。

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