ひふみさんからリプがあったのでいろいろ牛涎した

そもそも

「牛涎する」という動詞はないけれど、ダダ漏れで書くというのより、こもった草の匂いや動物の独特の臭気がするこの単語が好きなので、「牛涎した」と書いて「だらだら思っていることを書いている」という意味にしたい。

ひふみさんのポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築──フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへがとてもいい文章で、思わず文法的に気になったところをツイートしたら本人からリプライをもらったのでこのさい、あの文章についてもっと書いておく。なお、昨日は夜の九時ごろ、日頃の睡眠不足のせいか机で気を失っていた。なんとかベッドにたどり着いて11時間近く横になっていたので朦朧とした文章になっているかもしれないが、どうかご勘弁。

そこから

それがネガレスタニに到るのかは『サイクロノペディア』未読者の私には判断できない。しかし、ジェイムソンから始めるのには大賛成で、ようやくジェイムソンを私たちの世代でも読み直そう(いや、そもそも読んでいたのか?)という動きがでてきたのにはそっと追従して行きたい。というのも、

  1. ミチコ・カクタニを代表として、ポスモダはぜんぶ相対主義というステレオタイプ化されたポスモダ批判を実践する風潮は単に良くないから、
  2. フレンチセオリーを輸入したというより同じ課題についてタメをはって向き合っていたすごいやつで現在でもアメリカでは読まれているらしいから、
  3. 『未来の考古学』の圧倒的射程が好きだから、

という3つの政治的個人的理由がある。体力的にすべてについて細かく話せないのでそれぞれについて箇条書きで前提を述べると、

  1. 戦後まもないフランスで極度の保守的エリート教育を受けた哲学・文学研究者たちが本当に単に「真理は相対的です、フェイクニュースもまた真実です」とか言うはずがないのに、なぜかそういうことになっているのは本当に調べなさすぎだし、勉強が足りていないと思う。むしろ、例えば効果と現実の関係など、いまの学問で言い換えれば人々の意志行動決定と制度設計の問題とかを哲学的にやっていたりだとか、他にも様々な試みをしていたのであって、フェイクニュースを肯定するものではない。もしもフェイクニュースを肯定しているならポストモダニストのフランス人であれば陰謀論を支持してユダヤ人虐殺の肯定やアルジェリア占領を肯定するとかしていたはずだが、ポストモダンの巨頭であるデリダはアルジェリア生まれのユダヤ人だったりする。というか、行動経済学とかと一緒の頃に出てきたように、既存の学問体系の大きな変革期にあったのであって、そのあたり抜きにしてなんでもポスモダのせいにするのは歴史的に間違っているし、アンフェアすぎる。最低限のルールを守って様々な可能性を検討していた時代に現代の尺度を当てはめてああだこうだいっているのも同様に論点先取にすぎない(例えば、数物理に対するお話しにならない理解などあるが、あれも現在の研究者でそれを鵜呑みにしている人はいないはず)。
  2. アメリカに文学研究で留学している知り合いがいないのでわからないけれど(大学ごとに特色があるのでいたとしても全体的な傾向を知ることは難しいだろうが)、情動論とかでもジェイムソンが情動論をサーベイしてまとめたイントロダクションが非常によく読まれているのは英米文学研究界隈の知り合いから聞いているし、当時単にフレンチセオリーを導入したわけではなくて、『政治的無意識』でもはっきりしているように、ヨーロッパの思想史をアメリカにおいて考える、ということをやった人であって、日本において同じ対象を考えるのであればやはり参考になる。そこにいないで、そこについてここで考えること、というやつ。
  3. 『未来の考古学』はSFについて詳しいとはいえないが、有名な作品について、ジェイムソン独自の政治観に依拠した理論によって峻別している。それは、ジェイムソンへのステレオタイプ批判にありがちな「マルクス主義」というわけでもない。例えば、ジェイムソンは『闇の左手』をとりあげながら、そこで描かれている同性同士の出産などの細かい文化人類学的記述によって読者を圧倒する秀抜な作品は、実は現実の複雑な問題をわりきってしまっている(縮減している)、つまり、過度な単純化のうえで詳細な描写が可能となっている、という興味深いことを述べている。このいわばモデルと現実の相応性について政治的なアプローチを行っているジェイムソンの問題提起は、政治的アクションと文学の関係や現実とフィクションの関係を、別の観点から考えさせる点で独特な論点であり、個人的に引き受けていきたい。

そのほか(「世界は滅ぶというけれど⋯⋯」)

最後に、ひふみさんのブログ自体に戻る。ひふみさんのブログは、私にとって リスク論と社会政策の折り合わなさ を存在論レベルで語りなおすスリリングな論考に思えた。最近、予測がつくる社会: 「科学の言葉」の使われ方を読んだせいもあるが、私の基本的な関心事として、制度設計と予想はなぜこうも合わないのか、あるいはある程度当たっている予想はなぜその時に選択することができないのか、ということがある。それは「危機」と人がそれを呼ぶ場合、「意思決定者が人の話を聞いていなかったからでは」と指摘されるような、その時の潜在的な誘発要因の見過ごしであることが多い。ひふみさんのブログから引用すれば、

「危機」はいまだポストモダン的−相関主義的安全さの圏域内に留まっているのだから、私たちの時代が迎えつつある変化を「危機」の名で呼ぶべきではないのは自明だ。

というのは本当にその通りである。私も「危機」であると言いたくはない。単に解決すべき問題があるのであって、その解決方法や誘発要因の探索が重要なのだ(私が飛行機事故のドキュメンタリーを偏愛してしまうのは、痛ましい事故が存在論的かつ制度設計という社会的問題を目に見える形で教えてくれるからだ)。

その想像力を回復する方法として、終末ではない「資本主義の終わり」を考えていこうとひふみさんは提案する。私はある程度のレベルにおいて『デス・ストランディング』はそれを達成していると思っている。小島秀夫は、世界の終わりと資本主義の終わりの想像力をメタレベルで語りなおす物語を作った、とひとまず言える。ただし、「非常出口」はそこにはなかった。当代随一の天才は世界の終わりを見つめながら荷物を運ぶロマン主義の鋳直しを行ったが、おそらくそれは出口ではない。ただ、発想の転換をすると、あらゆる文明は何かしら終末について神話を語ってきたように、「世界の終わり」を周期化することで、終末を想像することも「資本主義の終わり」を想像することも簡単にしてしまった物語として(「明日はあなたの手の中に」の章で社会を運営するために荷物を運び続けるように)、『デス・ストランディング』はやはり天才の技芸なのかもしれない。

おわりに(これからのタピオカ文)

ひふみさんにタピオカ文を書いて欲しいとVaporwave特集の座談会にひっかけて言ってみたが、基本的にひふみさんのハードコアな文章はわりと好きなので来るべき著作は今回のブログのままの勢いでいてほしいと勝手に思っている。なお、私は貢茶のブラックミルクティーパールトッピングや、ジャスミンティー(たまにミルクフォームトッピング)が好きなので、実際に飲みながらまたひふみさんと雑談をしたい。