昔々、ゴッサムで……

ブログの一覧に戻る

【映画評】【⚠劇透】クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、トッド・フィリップス『ジョーカー』

映画評というか、備忘録としてクエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とトッド・フィリップス『ジョーカー』をとりあげる。どうして一度に2つの映画をとりあげるかというと、私にとって2つの作品が、「多くの作品を引用している」映画のうち、最近見たもので、なんとなく似たように感じたのが印象深かったからだ。そんなわけで、お時間あるかたはお付き合いください。

とりあえず結論だけみる。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(OUTH)

私は西部劇が面白いと感じたことがほとんどないので、全く詳しくないが、 The Quentin Tarantino Archivesでの細かなレファレンス紹介などを頼りにこの作品の面白いと思ったところを紹介していく。

作品タイトルは、セルジオ・レオーネ監督『ウェスタン(Once Upon a Time in the West』(1968)に由来している。ヨーロッパでは制作の中心の題材となることはなかったが、イタリアでは60年代に入ると西部劇の制作が盛んになり、60年代の終わりになると多くのアメリカ人西部劇俳優がイタリアで生活して撮影をするようになった。かの有名なクリント・イーストウッドもそのひとりだ。このイタリアで作られた一連の西部劇作品は、マカロニ・ウェスタン(Spagetti Western)と呼ばれている。なお、S・レオーネ監督は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)という禁酒法時代を描いた映画を撮っており、それも参照しているかもしれないが、スパーン牧場(Spahn Ranch)に住むマンソン・ファミリーをモデルにしたヒッピー集団も登場することも考えると、やはり『ウェスタン』を中心としたマカロニ・ウェスタンが意識されているだろう。『ウェスタン』の主人公ハーモニカは西部劇ヒーローのアイコンになっており、コーエン兄弟によるNetflixオリジナル19世紀アメリカオムニバスドラマ『バスターのバラード』のある話で、バンジョーを弾きこなすならず者の主人公を殺す男はハーモニカを吹いていた。

60年代にかけて黄金期を迎えた西部劇は、その後急速に衰退していった。現在では、西部劇が制作される場合、スコット・フランク『ゴッドレス』(2017、Netflixリミテッドシリーズ)のように、19世紀末アメリカに偶然生まれた女性共同体(これは、南北戦争時代を描いた『白い肌の異常な夜(The Beguiled)』(1971)と完全に無関係ではないだろう)といったように、少しひねりを加えたものが当たり前で、60年代さながらの西部劇は作られていない。

一方で、私たちの世代にとって、テーマパークやフィクションの舞台や意匠として西部劇は馴染み深い。腰から肩までの高さのある観音開きの木戸を軋ませる、テンガロンハットを被った「男」が、あぶみに足を通しやすい鋭いつま先のブーツで床を鳴らす。これは、いかにも西部劇らしいシチュエーションだ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3(Back to the Future Part III)』(1990)でも西部劇の世界がその舞台となり、ドラマ『ウエストワールド(Westworld)』(2016)、'73年の映画も、西部劇の意匠を用いている。なお、『ウエストワールド』の「黒服の男」ことウィリアムの衣装は、『ウェスタン』に登場する悪役の服を示唆しているのだろう。このように、西部劇の意匠を用いた作品には枚挙にいとまがない。そのおかげで、タランティーノの『ジャンゴ —— 繋がれざる者(Django Unchained)』(2012)や『ヘイトフル・エイト(Hateful Eight)』(2015)など、思いのほかその内容や時代背景に見覚えがあった人も多かったと思う。また、 Red Dead Redemption (2010-2018)といったゲームのシリーズもこの時代を舞台にしている。今でもフィクションの中で西部劇ならびに19世紀のアメリカというのは魅力的な題材なのだ。これは、まだそれほど統合されていない19世紀アメリカが、現代の分断されたアメリカのイメージとつながるところがあるからかもしれない。2010年代にタランティーノが西部劇の世界に基づいて新しい映画を作り続けたのは、そうした背景の中であったことを忘れてはならないだろう。

ところで、タランティーノの映画といえば、古典の名作のシーンを借りてショットを構成していくサンプリングのスタイルが有名だ。タランティーノをDJにたとえた論文もある(Rennett, Michael. “Quentin Tarantino and the Director as DJ.” The Journal of Popular Culture 45.2 (2012): 391-409.)。というわけで、タランティーノの引用のスタイルについて先に確認しておく。タランティーノが有名になっていった90年代、その時代の言葉を用いて、彼のスタイルはポストモダン的と呼ばれた。しかし、どの時代のどの映画にもそれぞれ参照先というのを持っているのは、少し調べればわかることであり(絵画とかも参照先になっている)、斬新なショットやカットのほうが実は少ない。つまり、ここでいうサンプリングというのは、DJがそうであるように、単にオリジナルを切り貼りするというのではなくて、引用によって元のシーンを作り変えて自分の文脈に置き直すことであり、タランティーノはそのスキルにおいて傑出している。タランティーノの出世作『パルプ・フィクション(Pulp Fiction)』(1994)を例にとってみてみよう。この作品でミームとなったシーンといえばこれだ。

このシーンの踊りは、フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』(1963)と同じ振り付けだ。

ここでのレファレンスは2つの事柄を示唆しているとひとまず考えてみたい。

  1. 踊る2人は恋愛関係にあるかどうかわからない。(シーンの引用
  2. 男性は死ぬ可能性がある。(作品のあらすじからの引用

『8 1/2』のダンスシーンは場面の演出で用いられている。踊っている2人を見つめているのが主人公の男性だ。2人は唐突に登場するため、どのような関係にあるかは想像するほかない。次に、踊っている男は主人公ではないが、『8 1/2』はスランプ状態の男性映画監督が温泉街にいってアイディアを模索するが行き詰まって自殺してしまう(正確には、そうほのめかされる)。『パルプ・フィクション』の主人公ヴィンセントもまた、思わぬ形で死亡する。フェリーニのこの作品を引用する場合、そうした連想が生まれる。このように、オリジナルのシーンと引用をどのように考えるかは解釈者次第なので、そうした連想に納得いかないのももちろんありえる。例えば別の人であれば、チャック・ベリーの曲が流れている点や50-70年代のハリウッドのアイコンが渾然一体となっている舞台の上でイタリア映画の意匠を借りてくる点などを踏まえてシーン自体の意味を考察する。このように、元のシーンそのものを完全に再現するのではなく、基本的にはオリジナルなシーンでありながら、明らかなレファレンスを用意しているというわけだ。タランティーノらしさの1つにあるのは、こうした元のふとしたシーンを自作の文脈に置き換えることで、印象的なシーンを作り上げるのに成功していることだ。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も様々な箇所でシーンや物語の要素の引用が見られる。そもそも、主人公が持ちつ持たれつの男二人というのは、『明日に向かって撃て!( Butch Cassidy and the Sundance Kid)』(1969)の二人組を連想させる。公開年がOUTHの舞台と同じ年という点も、このレファレンスを際立たせているだろう。さらに、J. Hobermanの“Once Upon a Time in Tarantino’s Hollywood”でも指摘されていることだが、マンソン・ファミリーが住宅を襲撃するのは、西部劇ではおなじみの、共同体の外部からならず者が訪れるのと同じ図式というわけだ。シーンの構成でも、先に紹介したThe Quentin Tarantino Archivesに詳しくレフェランスが書かれている。

ところで、この映画では、少し調べればわかるように、古い映画からのシーンの引用が多く行われている一方で、もう一つ際立った引用対象がある。それは、歴史だ。この映画では、多くの1960年代末のハリウッド映画、俳優、実在の登場人物が出てくる。しかし、それは史実とは言えない。主人公のひとり、シャロン・テートは現実にはマンソン・ファミリーの兇刃に倒れた。彼女が死ななかった歴史は存在しない。これは、ダルトンやブースといった虚構の登場人物たちのハリウッドに、史実をタランティーノ的に引用するというのが、OUTHの本質であるのを意味している。だから、多くのレビュワーが述べているように、1960年代ハリウッドのもう一つの歴史だとか、タランティーノにとっての理想のハリウッドを作り上げようとしているだけだとは思えない。これはそもそも、タイトルに示唆されているような西部劇として描かれたハリウッドなのであって、現実のハリウッドも、その可能性もその中心的な話題にはない。

映画の内容を詳しく振り返ることで、以上の話にもう少し道しるべをつけておく。J. Hobermanや The Quentin Tarantino Archives の執筆者たちが述べている重要な映画の特徴の1つに、ダルトンがイタリアに旅立つ前の最後の米国内で撮影した映画のセットはタランティーノ『ジャンゴ』で用いられたセットをそのまま使っている点がある。そして、西武劇のセットは異なるドラマや映画で再利用されるのもまた、よくあることだった。OUTHでマンソン・ファミリーが住んでいたスパーン牧場も、西部劇でなんども利用されたセットであり、映画の中で映画制作の構造が入れ子になって示されている。この映画は西部劇についての映画というメタ構造を持っている。

主人公の一人であるブースが廃棄された映画セットの跡地に住んでいるのはそうしたメタ構造に由来している。ブースは西部劇の終わりを象徴しているというわけだ。一方で、ブースがスタントダブルを務めるダルトンは、ハリウッドの高級住宅に住んでいる。ダルトンはハリウッドではもう通用しなくなってきている。ハリウッドの内部にいるダルトンはスタントダブルのブースと依存関係にあることから、徐々に外側へ、つまりその終わりへと向かっている。2人の人間関係が現実のハリウッドの歴史のダブル=代役、すなわち分身になっているのだ。タランティーノがスタントマンの変態殺人鬼を登場させている『デス・プルーフ(Death Proof)』(2007)では、その男が自分をスタントマンと名乗っていたのとは異なり、スタントダブルと映画の中でほぼ一貫してブースが紹介されていた点からも、ダブルという言葉は重要なのだ。

この2人の映画の中での強い結びつきは、物語の展開と軌を一つにしている。物語後半、ダルトンは自分のキャリアのために、ブースとイタリアでマカロニ・ウェスタンを撮影することになる。ハリウッドの外に出て行くことによって、ダルトンは結婚し、生活も安定し、キャリアもつながった。ただし、当然そのことによってブースとの関係は家庭の優先と雇用関係の解消によって途切れてしまう。物語の安定した構造の破綻は、それを埋めるようにして新しい事件を必要とする。つまり、マンソン・ファミリーの襲撃だ。ただ、『荒野の七人(The Magnificent Seven)』(1960)に典型的なように、ならず者はOUTHでも成敗される。ダルトンは第二次世界大戦を描いた映画で用いた火炎放射器でマンソン・ファミリーの一人を、かつて演じた映画でナチス党員にしたように燃やし、タランティーノいわく第二次世界大戦の英雄であるブースは怪我を負うもののほとんどのファミリーを殺める。同じく第二次世界大戦の英雄を描いている『イングロリアス・バスターズ(Inglorious Bastards)』(2009)で、ブースを演じるブラッド・ピットは、レイン中尉を演じ、レイン中尉はダルトンが演じた役と同じような役である点が少しややこしいが、重要なのは、自己参照されている『イングロリアス・バスターズ』とは異なり、OUTHは一貫して西部劇である点だ。西部劇、さらには西部劇についての映画でもある作品の世界では、現実のハリウッドの歴史と虚構の分身関係は最終的に解消され、生き残ったシャロン・テートは現実の人物から虚構の人物、タランティーノの登場人物の位相に滑り込む。それはオリジナルのダンスシーンを見たときとタランティーノの作り変えたシーンを見たときに感じるのと同じ効果を与えているのだ。

タランティーノがこの映画で行なっているのは、このように、現実のハリウッドの歴史を虚構に引用しつつ、最後はその歴史自体を虚構化することなのだ。それは、彼のショットの引用と同じような操作だ。西部劇という虚構の中にハリウッドの60年代末期を溶かしこみ、物語を抽出する。この映画は、今回見た以外にも様々な現実の歴史へのレファレンス(アポロの打ち上げ、ニクソン大統領就任など)がなされており、すべてはタランティーノ的引用によってこの西部劇の中に組み込まれている。一方で、アクション映画らしさに欠け、フェリーニの映画のように大きな起伏のないOUTHは、彼がしてきたように、今後の映画監督たちがこの映画をどのように引用するかによってこそその真価が問われるのだろう。多くの論者はタランティーノが夢見たハリウッドの歴史、もう一つの歴史などといった言葉を用いているが、ひとまずこうした物語の構造とタランティーノの手癖を確認しておく必要があると私は思う。

というわけで、私の素朴な感想は「普通だった」くらいだが、J. Hobermanが述べているように、タランティーノの映画がこれで本当に最後なら、傑作でもないが、かといって否定すべきでもない西部劇への愛のつまった作品を送りだした彼は、一番いい時にやめたというのは間違いないだろう。

『ジョーカー』

DCユニバースの映画は1つ見て面白くないと思ったので『ジョーカー』を見る気は全くなかったが、マーティン・スコッシ『タクシー・ドライバー(Taxi Driver)』(1976)を現代において作る、そもそもDCユニバースではないなど聞き、配信されてから見ようと思っていた。しかし、二日酔いの大学学務帰りにあまりにも何もしたくなく、さらにポイントが貯まっていてタダで見ることができたのでシネコンに足を運んで見た。なお、どれくらい『タクシー・ドライバー』感があるかは、『ジョーカー』で『タクシー・ドライバー』風のティザーを作ったものとその逆のものを見て、みなさんそれぞれで判断していただきたい。

ジョーカーがタクシーに乗ると……

タクシーがジョーカーを乗せると……

『ジョーカー』を見てみると、『タクシー・ドライバー』だけでなく、目立ったものとして、スコセッシ『キング・オブ・コメディ(King of Comedy)』、『レイジング・ブル(Raging Bull)』(1980)、シドニー・ルメット『狼たちの午後(Dog Day Afternoon)』(1975)、『ネットワーク(Network)』(1976)、ウィリアム・フリードキン『フレンチ・コネクション(The French Connection)』の物語、人物造形、ショット、カット、シークエンスへのレフェランスがあり、ミロス・フォアマン『カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)』(1975)やスタンリー・キューブリック『シャイニング(The Shining)』(1980)のジャック・ニコルソンの素敵な笑顔や廊下などが参照されていて、タランティーノのOUTHが思い出された。タランティーノが1960年代を中心とした西部劇を引用するのであれば、1970年代から80年代にかけてのノワールものとブラック・コメディをDCキャラクターを使って現代的にマッシュアップしたのが本作というわけだ。映像にはスコセッシとフィンチャーの合いの子みたいな感じがあり、みんなスコ・フィが好きだなーと思った。

都内の某シネコンで午後5時くらいの回で見たにもかかわらずほぼ満席だったので、どう見ても映画オタクが作ったようにしか思えない映画をこれほど多くの人が見ているのは驚くしかなった。とはいえ、私はこの映画に対しての感想は「ホアキン・フェニックスいつ見ても最高ですね」、「ああこういうふうにあのシーンを使うのか、うまいなぁ」、「このシーンむっちゃいいなぁ」、「音楽最高」などと感じたくらいで、全体的な感想としては普通くらいだった。

私が好きな引用シーンだけ触れておくと、一番面白かったのは、このシーンと、

このシーンの引用だった。

すでに見た人はよく覚えていると思うが、『ジョーカー』でアーサーが馘首(クビ)になったあと、最初にウォール・ストリートで働く若いホワイトカラーを銃殺するシークエンスで、電車の中での銃殺、電車のドアを降りたり降りなかったりの逃避行、階段での射殺など『フレンチ・コネクション』の有名なシーンをそのままつなぎ合わせており、同作品へのオマージュとなっている。そのほか、いろいろありすぎるので、これを読んで興味を覚えた方は英語で“Joker you missed 10 things”などとYoutubeを検索すればたぶんいろいろ出てくると思うので調べてみてほしい。

次に、感想がなんで普通程度なのかという点について話したいと思う。ひとまず、私や私と同じようなタイプの人の雑感は以下のリンク先で優れた美学研究者たちがより研鑽され一読にふさわしいかたちで述べており、ぜひ読んでみてほしい。

まず触れておきたいのは、Rebecca Kuklaが述べているように、これはまず精神疾患と暴力行為を安易に関連づけるステレオタイプを増長してしまったのは間違いないので、『ジョーカー』を見た人はくれぐれもアーサーのように「変わった」人が「誰かを殴ったり殺したりするかもしれない」などと思わないようにしてほしい。どうしてもそれを信じられない人は、中井久夫、斎藤環、信田さよ子、松本卓也などの具体的に症例を扱った本(ようは、入門書っぽいもの)を読むか、東京福祉保健局のこのページを読むなどしてそうした偏見と向き合ってほしい。映画の内容をまずはそのまま受け取るべきで、すなわち、アーサーが薬から暴力に依存先を代えたのは(人を殺すことで病が治ったように見えるのは)、社会に排除されたためという、あっけらかんに描かれている物語内の事実を忘れてはいけない。

注意書きはこのくらいにして内容を分析してみると、Kulkが述べているように、この映画を一言でまとめると、貧困層の白人が同じ白人の富裕層に対して、「我々はあなた(たち)と同じく白いのに、なぜ私にはあなたの持つものがないのか」と要求する物語だ。これは、kinship(同族・血縁関係、社会学用語だと思いますが、正確な翻訳は調べていません)に基づいて同じ地位(entitlement)を要求していると言い換えられる。この着眼点が重要なのは、家と職場以外でアーサーと話を交わす人物がほぼすべて黒人(バスで笑わせようとした子連れの親子、2人のカウンセラー、母の診断書を照会する事務員、恋心をいだく隣人)で、アーサーのような社会に包摂されない貧困層にいるのは、黒人たちなのだ。しかし、アーサーはそうした人々と決して関係を築けない。さらに、そうした人々を無視してとにかくトーマスという富裕層の白人が自分の父親だと頑なに信じようとしており、文字通りにkinshipなのだ。物語の途中でカウンセラーに対して自分の話を聞いていないと非難するアーサーだが、アーサーこそ、自分と同じ立場にいる人々の声にまったく耳を傾けておらず、ひたすら自分の妄想に囚われているという点が、物語の中でアイロニーとして機能している(さらにアイロニカルなのは、ピエロは黒ではなくて白い顔をしている点であり、これもKulkがアイロニカルとは言ってはいないが、先のエッセイの中で指摘している)。

次に取り上げる評論として、Kulkの寄稿している記事の仕掛け人の一人であり、“Against Rotten Tomatoes”で近年の映画評論状況の危機感を述べているMatt Strohlを取り上げよう。彼は安易にオルトライトやインセルの暴力を助長させる映画だと批判する声に懸念を示しているが、私もそう思う。Kulkが示しているようにこの映画はかなりよく練られているので、そうした簡単な枠組みに当てはめるのであれば、この映画でなくとも良い。ただし、アーサーが「復活」によってキリストにように祭り上げられている点だけを記憶して、「ジョーカーのように行動すれば支持を得られるはずだ」となってアクションをする人は必ず現れる。ただ、それはあらゆる政治的思想や宗教的思想を殺人の正当化に持ち出すのと同じ状況なので、映画の責任は決して問えない。むしろ、暴力の構造を明らかにしているこの映画に照らし合わせて、映画の中で描かれているサービスの質はともかく、「福祉は大事だな」、「家庭にどこまで公共は介入できるのか」などといった議論がなされるべきはずだ。

ところで、社会に包摂されない貧困層白人の主人公の映画といえば何かありますか、と私が聞かれた場合、真っ先にダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ(Rosetta)』(1999)の名前を上げるだろう。『ジョーカー』のように社会を巻き込んだ暴力などを起こすような物語の展開はないが、『ジョーカー』で扱われている題材はこちらのほうがはるかによく料理されていた。なお、私はラストシーンのせいで一時期バイクを見るのが嫌になった。そして、私はこうした題材にショーを求めていないので、比較すると『ジョーカー』がショーであっただなと思われた。なお、他にもたくさんそうした題材のドキュメンタリーや映画があるので見てみると良いだろう。

ところで、先ほど感想が「普通」と言っているのに今度は練られていると言ったのは矛盾しているのでは、思われる向きもあるかもしれないが、私はそもそも映画の内容に疑問点がたくさん湧いてしまい、練られているからという理由で映画を好きになれなかった。例えば、現代版『タクシー・ドライバー』を作るならイラク戦争帰還兵でやるアプローチもありえたろうし、わざわざこうした70-80年代ノワールに合わせて同じくらいの年代を映画の舞台に設定する必要性もよくわからなかったし、最後に発生する暴動はアメリカでは人種差別と関係しているのにそれを白人がやるというのもかなり違和感があり(黒人が参加しているのは視認したが、明らかに白人の方が多かった)、アーサーは薬から暴力に依存先変えただけであるのにさして深い言及もなく(あたかも解放された感じに描かれているのはあまりにも浅慮だった)、『ネットワーク』をふまえたラストシークエンスは『ネットワーク』の方が良かったうえに、リズム感も他のシーンにあった不気味なかっこよさは感じられないな、などと思った。

とはいえ、そうした映画のトーンのブレこそ、トッド・フィリップスの映画だったのだな、と改めて気付かされた。『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い(The Hangover)』(2009)ですでにブラック・コメディの演出に長けていたフィリップスは、『ウォー・ドッグス(War Dogs)』(2016)でさらに大掛かりなアクションシーンや「重要な店内シーンは椅子と机がたくさん並んでる」(『ジョーカー』ではスタンドアップ・コメディをやっていたレストラン)などフィリップスっぽさを確立させており、そうした映画で見られたコメディとシリアスの緩急が『ジョーカー』にも応用されたものの、コメディアンになりたい主人公のジョークは面白くなく、それうえ悲愴感が漂っているからところどころ不統一な感じがした、というわけだ。また、悲劇や喜劇についてアーサーが語ってみせるのも、フィリップスが撮影していることを考えると、映画の趣が違って見えてくる気もする。ただし、先に述べたように、司会者殺しのシーンは元の『ネットワーク』の方が優れていたと率直に思った。『ネットワーク』では、“Let’s kill the son of a bitch.”というプロデューサーのダイアナが言い放ち、次のカットのロングショットのシーンで司会者が銃殺された後、そのまま司会者殺害のニュースを流すマス目状に並べられたブラウン管のテレビのドリー・ショットが入るとそのまま映画が終わっていくのは、描かれている世界の狂気をよく切り取っていた。映画の中にその殺人について感想を述べたり、考えを主張する人物が現れないために、番組の狂気を駆り立てていた視聴者が最後のショーをどのように受け取ったのか全くわからないという余白が恐怖を生んでいる。一方で、『ネットワーク』の主人公の司会者が狂い始めたときのように、テレビを見ている人に向かって叫ぶジョーカーと、ジョーカーによる司会者ミュレー殺しはどうしてもそれに比べると緊張感がなくなってしまっており、見ていてあまり面白くはなかった(そういえば、ここでなぜか版権フリー動画として見れるので、英語にそれほど差し支えのない方はぜひ元になっている映画をご覧ください)。

しかし、この映画は、内容やショットについては普通(かちょっとアレ)だとしても、音響演出が大変すぐれていた。フィリップス作品では珍しい精神的圧迫による緊張感の演出は、Hildur Ingveldardóttir Guðnadóttirの音楽によって驚異的な仕上がりになっている。この映画は全体的にホラー的な場面作りが多いのも、そうした効果が上がっている一因なのだろう。ホラー映画ではないものの、スリリングで不安を煽る場面作りに長けている映画監督として、フィンチャーがよくあげられる。『ジョーカー』の雰囲気をうまく説明しているわけではないが、わかりやすい解説動画があったので、それを添付しておく。

ここで言われているように、不安を煽る演出はカメラはパン、クローズアップの組み合わせ、音楽は不安なもの、色調は暗めというのが基本だ。『ジョーカー』でラストシーンの白く長い奥にまっすぐに続く廊下を覚えている人が多いと思うがこれをなぜ覚えているかというと、明るい音楽と色調、さらに固定されたロングショットが映画全体に対してコントラストをなしているからだ。つまり、映画はとにかく不安な音楽と暗い色調、そして、パンようなカメラの動きとクローズアップがよく用いられたのでラストシーンが目立っていたというわけだ。念の為、印象的なトイレのダンスシーンで『ジョーカー』における不安の演出を確認しておく。

まず、色調は暗い。電灯も明滅しているのでダークな雰囲気が漂っている。カメラの動きを見てみよう。画面右側のドアに手をついたアーサーをカメラは、ゆっくりと左に移動しながら少しずつクローズアップしてき、足元に移動する。足がゆっくりとステップを刻み始めるあたりから、手ブレ映像(Shaky Camera)が目立ち、緊迫感を持たせる演出がなされる。手の動きを追いながら上を見つめてポーズを決めるアーサーの緑がかった化粧顔をとらえる。この間、ずっと流れているのは、Guðnadóttirのチェロの重低音だ。お手本通りの不気味さの演出である。こうしたテクニックを知らなくても、人を殺して全速力で逃げてトイレに駆け込んだ挙句、ゆっくりと踊り出すアーサーをみて観客は「なんだこいつ」と面食らうはずで、そうした観客の気持ちによりそった巧みな演出といえる。と言いつつも、フィリップスほどの映画監督であれば、こうした優れたシーンはどの映画にも必ずあるので、これがあるからといって別に映画を好きなることはないのが、それはそれで悲しく、自分が大変面倒な鑑賞者だなとつくづく思う。

愚痴はさておき、『ダークナイト(The Dark Knight)』(2008)の先入観が強すぎて、途中の“Following Sophie”なんかはJames Newton HowardとHans Zimmerのtemp musicっぽいと思っていたが、アルバムで聞き直してみると全くそうではなく、かなりオリジナリティが高いうえ、1つの曲として聞けるので、Guðnadóttirと彼女を起用したフィリップスの采配には拍手を送りたい。なお、個人的に、“Defeated Clown”は名曲だと思った。

あまりにも素晴らしいのでGuðnadóttirについてもう少し紹介する。彼女は、クレジットされれている映画音楽はほとんどないが、近年では、ドラマ『チェルノブイリ(Chernobyl)』(2019)のサウンドも手がけている。また、彼女はJóhann Jóhannssonの弟子なので、実は『メッセージ(Arrival) 』(2016)でチェロを演奏し、“First Encounter”といった曲で、未知と遭遇した主人公たちの不安と緊張感を演出するのに一役買っていた。『ジョーカー』と『チェルノブイリ』のサウンドが同じ音楽家によって作られているのは、映画の題材を踏まえると大変興味深い事実だが、今回はGuðnadóttir論ではないのでこれ以上は何も言わない。

ちなみに、こうした不安と緊張を演出する音楽はスリラーやホラーやSFでよくでてくる。先に言及したHowardとZimmerの共同作曲のなかでも、やはり“Why so serious?”などは名曲だろうし、2018年にホラー映画の名作の1つとして数えられることになった『ヘレディタリー/継承(Hereditary)』(2018)のColin Stetsonもこの傑作ホラーの雰囲気作りで欠かすことのできない音楽を提供している。その他、似たような曲をお好みであれば、『アナイアレイション —全滅領域— (Annihilation)』(2018)、『エクス・マキナ(Ex Machina)』(2015)のGeoff Barrowや『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。(IT)』(2017)や『ブレードランナー2049(Blade Runner 2049)』(2017)のBenjamin Wallfischなども優れた映画音楽を生み出している。気になった方はぜひ聞いてみてください。

終わりに

さて、長いことだらだらと書いてきたが、結論は次の通り。

1.

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でタランティーノは、歴史の引用を通じて史実を虚構化し、その操作は映画の引用と同じだった。物語の筋やキャラクターの人間関係は西部劇だった。感想は普通。

2.

『ジョーカー』は引用がタランティーノ並みに多く(しかもタランティーノよりわかりやすい)、70-80年代ノワールリスペクトだった。不安の演出に長けていて、ホラーっぽかった。それについてトイレのダンスを具体例に説明した。ただし、引用の仕方や話作りには疑問が生じ、見終わると普通という感じだった。

3.

『ジョーカー』のサントラはほんとにいいので聞いて欲しい。Hildur Guðnadóttirを聞こう。

というわけで、文章の長さのわりに話の中身がなかった。とはいえ、良い備忘録になった気がするので、落着。

2019/10/30 ver. 1.0.0

ブログの一覧に戻る